旅するのでR(番外編)

Losing is not always a bad thing. Sometimes one must lose to gain something .

沖縄の歴史と文化、メモ

海上交通と政治的覇権 前述もしたように15,6世紀の琉球王国海上貿易権を確率して王国の経営に努めて言った時期であり、股同じように東アジア、東南アジア史も交易を軸にして歴史がうごいているという時代の大きな潮流があった訳であり、そのような潮流の中にあって琉球王国、あるいは宮古八重山の島々が歴史の触発をうけながら小国家として生きようとしている様がここには、集約されているように思われる。つまり、南海の島々では歴史に目覚めた有力者が権力掌握のための手段として海上貿易に経済と覇権の道を求めていったわけである。それが、大地に恵まれない島嶼群小国家の歴史に生きる自立の道であるともいえよう。八重山宮古と組み、宮古が沖縄とくもうとしていく権力者の政治に歴史発展の一段階を見ることができる。

外間守善 沖縄の歴史と文化 メモ

沖縄の造形美についてしばしば「やさしさ」「おおらかさ」「あかるさ」という言葉で言い表されることがあるが、それらは島にすむ人たちの方を寄せ合う生活の心づかいなのであって、それそのものが美意識、美的感覚であるとはいえないように思う。

しかしそれらは美的感覚の原質というか、美意識を生み出していく為の豊かなる土壌であることは間違いない。美意識が生まれようとする蘖の(ひこばえ)それらを、私は、「素朴美」と言いういいかたでひとまず括っておきたい。民芸的な作品だけでなく、王朝芸術をも含めて沖縄のすべての造形に滲みでるように具現されている「素朴美」は生活の心つかい、息づかいから「美」をうみだすための源泉とでも言うものであろう

清ら美  沖縄では「美しい」と言うことをチュラサン(清らさあり)という。それも古くは華やかに美しい、きらきら輝くように美しいという意味で、使われており、先に掲げた日の出の美しさをたたえるオモロの「きよら」や花や月の美しさをいう琉歌の「きよらさ」などにそれを伺うことができる。つまりその「きよら」は王朝時代の文芸に見いだされる明らかな美意識なのである。「おもろそうし」の中の「きよら」の成熟は「清ら美」の発生を、尚真王時代の王朝文化に求めさせてくれるものと思う。

(以下、187ページまでチュラサンという言葉の持つ意味を語っている名文あり)

やさしさ、おおらかさ、あかるさ、などという語で表現される「素朴美」は、生活の奥ふかくにひそまっていて沖縄で生まれるすべての芸術の源泉になっている。そこに沖縄の美学の特質があると思われ、それはまた、あらゆる美的創造の源泉にもなるものであろう。

自立した美学   (略  これもすばらしい美文)

ああ、沖縄那覇新都心の県立博物館に1日いたいなぁ! ポツリ!

外間守善 沖縄の歴史と文化 メモ

(沖縄の芸能をまとめて)

まず、神々の呪縛のなかにあった古代祭祀の中に、生産を意味する模倣儀礼などを含んだ芸能のきざしがあらわれ、そこから、すこやかな村人たちによる神歓待の民俗芸能が生まれ、それを基盤にして高度に洗練された宮廷芸能が生まれるという発展的段階があったように思われる。しかも、その祭祀芸能、民俗芸能、宮廷芸能の三様が同時代に共存し、現代にまで生き続けていると言うこともまた沖縄における伝統芸能の特徴である。

沖縄の芸能を口承文芸とも関わらせながら分類すると次のようになる。

祭祀芸能・・・シヌグ、ウンジャミ、イザイホー、ウヤガン、ユークイ、アカマタ、クロマタ等

民俗芸能・・・エイサー、ウスデーク、クイチャー、タナドゥイ、巻踊り、アンガマ、京太郎(チョンダラー)等

古典芸能・・・古典音楽、古典舞踊、古典劇(明治に生まれた雑踊りや歌劇などは準古典として扱う)

夢十夜

こんな夢を見た。

嫁と俺、それになぜか、俺の知っている、だがそんなに話したこともない知り合い程度の男が同じ部屋にいる。

その男が嫁にあろう事か猥褻なサービスを要求しているのだ、しかも俺の前で。

しかもあろう事か、おれは嫁に、その男の言うとおり、サービスしてあげろ、手で、してあげろと促している。

そんな夢の断片。

そのときの嫁はなぜか30半ばのころの美しいくびれをもった体をしていた。

そうして筋も脈絡もいったん切れてしまうのだけれど、途切れた場面がまたはじまる。

なんと言うことか、その男に嫁が組み敷かれて、性行をしている。そうして傍らでというより、少し離れたところで俺は、まさに、あろう事かその行為を見ているのだ。

夢の中というのは都合がよくて、なぜそうなったのか、周りの様子はどうだったのかはすべて消えていて、その目前の様子だけがリアルに実体として残っているのだ。

嫁は座位で男の性欲を受け止めている。腰をくねらせ、男の口なのか手なのか、乳房をもまれている。

そうしてこともあろうにそれを俺は見ているのだ。妖しくも、しかし神々しくもあり、天女の降臨かと思うほど、あたりが色づいている。嫁の妖艶な肉体から光が放たれているのだ。光なのか男を虜にするためのオーラなの川からないが、何かからだから発散してるように見えたのだ。

美しい、と思った瞬間あたりに、俺は目が覚めた。

ぐっしょりと汗をかいていた。




こんな夢を見た。

天女が舞い降りた瞬間を俺は見たことがある。

車で会社に通勤するのだけれど、ある朝、その日も毎日のように、俺の運転する車は道路を西から東へと向かっていた。

そこへ、薄いピンクの柄のワンピースを着た女性が反対側の歩道を歩いて対峙するようにこちらへ向かってきた。

日除けの傘を差していたのでお顔を拝見することができなかったのだが、それが却って彼女を現実から少し離脱した姿としてとらえることができたのだ。

なんと彼女の真後ろから朝の強い太陽の光が、めいっぱいと注がれ、彼女のお召し物の薄いワンピースを透かして下肢の様子がシルエットとして浮かび上がっているではないか。

俺は、性的な興奮ではなく、現実から逃避した一種神々しい「天女」が舞い降りて来たのかと思えたのだ。

すらりとした体と後ろで光る、彼女を包むように光線が、つまり後光が差す姿を俺は見てしまったのだ。

手を合わせたい、そんな瞬間だった。

沖縄の歴史と文化、第2章 メモ

沖縄文学体系のまとめ

呪擣(祷?)→みせせる、おたかべ、てぃるくぐち、まじないぐとぅ

叙事→くぇーな、うむい、おもろ、てぃるる

抒情→琉歌(ウタ)

劇→組踊り、狂言、人形芝居、歌劇

メモ

このような神と人、人と神との心をつなげる呪言がこれまで見たように沖縄の島々には呪詞や呪擣的歌謡として今も生き残っている。それらはすでに化石化していて自律的は発展性を持ってはいないが、うっそうと静もる御嶽(うたき)のなかで巫女によるひたぶるな呪詞の繰り返しを聞くとき理屈なしに神との交感を感じないではおれないし・・・

オモロは沖縄奄美諸島に伝わる古い歌謡で本来ウムイとおなじものである。「おもろそうし」は12世紀から17世紀初頭にわたって謡われた島々村々のウムイを採録し編纂したもので1554首のオモロが納められている。オモロの語源は「思ふ」である。「言う」口に出して「唱える」という意味の日本古語「思ふ」を原義にしその体言化したものが神の言葉、神言とという意味を背負わされたものである。すなわちオモロは神が人に授ける言葉、あるいは共同体の心を神に申し上げる、宣(の)り奉る言葉で共同体と自然とのかかわり合いの中から発生し、発展していったものである。

(17世紀初頭ころからおもろはウタ(琉歌)へと移っていく)

16,17世紀の後期オモロは形態的にも発想的にも叙情的な傾斜を見せ始める。それは歌形が短く整ってくること、人の心が歌われるようになることを特徴として挙げることができる。オモロから歌への変遷を文学史的に見ると呪祷や叙事の時代に区切りをつけ叙情的な文学を生み出す時代にはいることになる。

7,8世紀頃万葉集のような抒情歌を生み出した日本文化に比べると同じような抒情歌を生み出すのに千年位のずれがあったことになる。この千年の落差は歴史の分野でも言われることで沖縄の社会や文学の構造を見るのに大事な視点である。

沖縄の歴史と文化 メモ

外間守善「沖縄の歴史と文化」より

近世期までの沖縄の歴史をあわただしく通観してきたが二つの画期、つまり1429年に全島が統一されて王朝が成立し400年の王朝史が始まること、1609年に薩摩の琉球入りによって王国のあらゆる面で変革を迎えることは、文化史を考える上でもエポックメーキングな出来事であった。特に後者によって近代社会を迎えざるを得なかったところに沖縄史の特徴が見られる。経済や文化意識の上で近世的なバネをもたず古代的なものをたぶんに抱え込んだまま近代社会へと移行していくことでその後の沖縄近代史は大きく規定されていったと考えられる。

(復帰前後の沖縄と本土の意識)

戦争を経験し、平和願望をようやく思想化して遅ればせながら平和憲法の下に帰ろうとした沖縄県民と、大事な平和憲法を空洞化の危機にさらされていた日本本土の思想の落差に「近代化」ということの意味の深淵をのぞく思いがする。

外間守善「沖縄の歴史と文化」から

(南方から文化が流入してきたとする柳田国男の説に対して)

 これに対して「沖縄学の父」といわれる伊波普猷は逆に沖縄の言語や民俗は九州から時を隔てて南進したもので日本文化に起源を持つものであるとしこれを整理することで沖縄学を体系化しようと試みた。つまり紀元三世紀ごろ九州の沿岸にいた海人部(あまべ)が、奄美大島を経て南下していったのが、沖縄の開びょう神話に登場するアマミキヨすなわち沖縄人の祖先であると考えた。その後、院政期をはじめ幾度となく日本からの文化の南下が行われ、それはそれは言語や民俗に痕跡をとどめているとするのである。ついでに言及すれば日本文化の南下説羽地朝秀をはじめとして近世王朝以来の沖縄における歴史観の主流を占めてきた。これは島津の琉球入りによるジレンマから沖縄を解放しようとした政治的努力に動機を持つものとされているが明治以後の伊波の研究もその延長上でとらえられがちである。しかし伊波の研究は、近代科学の理論や方法論にのっとった実証的なものである点に留意したい。

・・・もっとも三者はそれぞれの方位を一方的に主張しているわけではなく文化的諸要素の広範な目配りもしながら、特に留意しなければならない文化伝播の方向を示唆しているのであることを注意しておきたい。

(沖縄の文化を表した以下)

以上、酒、染織、陶芸を例にとりだしてみたのであるがそのいずれにも共通してみられることは、決して単純には色分けできない文化の重なり、複合性である。形あるものの重層的な積み重なりに、北、南、西からの文化の伝播を鮮やかにとらえることができ、海を門戸にして息づいている島に、多様な複合文化が作り上げられていく姿が垣間見られるのである。沖縄の地理的位置を斟酌すれば文化が単に一方から一方へのみ伝わるということはあり得ない。また、伝わってきたママの単純な姿であり続けるというものでもありえない。実態として北から南から西からの伝播を示す様々の文化要素を含みこんだ複合文化であるということである。

(外間先生の以下の文がなんという絶妙な美文、素晴らしい表現力ではないでしょうかね。)

沖縄戦については既に多くが語られているが死者の数はいまだに更新され一人ひとりがひとつの岩かげ、草かげでそれぞれの戦場を持ったその全貌は語りつくされるということはない。そしてその体験は近代国家の軍隊は人間とその生活を守るものではなかったことを沖縄の人々の心に強く焼き付けた。この原体験が戦後の沖縄の人々の行動を方向づけることとなる。